自然科学・数学

自然科学や数学に関する記事です。主に天文や地質に関わることに興味あり。 決して造詣が深いわけではないので新規性のある研究などはできていませんが, 一応は理系学生の端くれなので時々何か書くかもしれません。

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n倍角の公式を少し簡単に求める

(2013.12/26)

n倍角の公式って,加法定理から導出するのかなり面倒じゃないですか。 要領の悪い僕は高校時代の試験で3倍角の公式をど忘れしたときにいちいち導出しており, そのたびに3分くらいかかることがよくありました。 あれをもう少し簡潔に計算するための記法を考えたので,世のn倍角に苦しむ学生は必見。

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8×3と3×8

(2013.01/06)

小学校の教育で,文章題の解答における掛け算の表記順序はしばしば議論の対象になってきました。 例えば「3人の人が林檎を8個ずつ持っています。林檎は全部で何個あるでしょうか。」という問題の場合, 「まず各人が林檎を8個持っていて,それが3人いるのだから8×3=24である。3×8=24とするのは誤りだ」 というわけです。

この主張の意味するところは 「計算結果が同じだからといって事象に合わない順序で計算してはならない」ということでしょう。 確かに小学校では乗算に交換法則が成り立つことの証明を教わりませんから,8×3と3×8は意味が違います。 しかし,本当にそのような理由で3×8=24を誤りとして良いのでしょうか。 ここではそれに対するごく個人的な考えを記します。

結論から言うと,3×8=24も特に問題なく正答だと思います。

まずしばしば言われるのが「林檎の単位は〔個〕だ。掛け算の前後の数は それぞれ『掛けられる数』と『掛ける数』と解釈するのだから,その計算結果は掛けられる数と単位が等しくなくてはならない」 というものです。

これには明らかにおかしい点があります(ちょっと誤謬がわかりやすいように書いてしまったかもしれません)。 まず,この主張は3の方を単位なしと考えることを前提にしていますが,林檎の単位を無次元ではなく〔個〕とするならば, 人は〔人〕と解釈することも可能なはずです。林檎の個数と人の人数とが足されるようなことはないので, これらの単位〔個〕と〔人〕は独立の役割を持っています。 これだと8〔個〕と3〔人〕の乗算ですから,24〔個・人〕となってしまいます。

答えの24の単位は確かに〔個〕です。ではなぜ〔個・人〕などという変な単位が現れたのか。 実は,人数の単位を〔人〕としたとき,各人の持っている林檎の個数である8の単位は〔個〕ではありません。 『1人あたりの』林檎の個数なのですから,正しくは〔個/人〕です。 これで8〔個/人〕×3〔人〕=24〔個〕となり,単位が合います。 また,「3×8=24とすると24の単位は3の単位と同じ〔人〕になるからこの順序はおかしい」とはいえません。

「逆にすると単位が違う」という主張を掛け算の順番を守らねばならない根拠とするのは そもそも誤った認識であり,成り立たないことがわかります。

で,ここからが大事な点です。林檎をやや違った観点から数えてみましょう。

空の箱を1つ用意し,林檎を持っている3人が,合図とともに1人1個ずつ林檎を箱の中に入れます。 全員が1個ずつ入れるので,1回の合図で林檎が人数と同じ3個だけ箱に入ったことになります。 この動作を繰り返し,8回終えると全員の手元から林檎がなくなり,全て箱に入ります。

これは3×8=24と見なせる数え方ではないでしょうか。

或いは,各人が自分の持っている林檎に1〜8の番号のタグを1個ずつつけます。 ここで1番のタグのついている林檎を数えると3個,2番のタグのついている林檎を数えると3個,…… というように,全ての番号に対して3個になります。番号は8つあったのですから, これも3×8=24です。

このように,掛け算の順序は同じ事象でも観点に依存してかわってくるわけです。 つまり,掛け算の順序に正誤の区別をつけるというのは,一方の順序に当てはまる観点だけを正答とし, 他方の観点は認めない,という或る種の思想統制になっているのです。

確かに,なぜか掛け算の文章題では一方の解釈の方が他方の解釈よりも人間にとって直感的なことが多いですが, その直感の偏りが何か数理的な根拠に基づいていないならば恣意的な選択にしかならないわけです。 今度はこの直感の偏りがなぜ生じるのかを考えたいですが,何はともあれ,観点と掛け算の式が対応している限り, 8×3=24に限らず3×8=24も決して間違いではないのです。


採集した鉱物

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水晶

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